未来へ語り継ぐべき“国民的コメディアン”|内村光良が還暦を越えてもなお現役でいられる秘密とは

【熊本・人吉市に生まれた和製チャップリン】

内村光良さんは1964年7月22日、熊本県人吉市に生まれました。豊かな自然に囲まれたこの土地で過ごした幼少期は、彼のユーモアとやさしさの原点とも言えるでしょう。少年時代は人見知りで大人しく、クラスの中心になるタイプではなかったと自身も語っていますが、テレビで見たコメディ番組には強く惹かれ、チャップリンやドリフターズへの憧れを育んでいきました。

幼少期、家族の集まりの場でチャップリンを演じた際にえがおで喜んでくれたことで、誰かに楽しんでもらうことの喜びを知ったそうです。

また、地元の風景や人々との素朴な交流が、後の映像作品にも通じる「生活感のある笑い」や「温かい人間ドラマ」に昇華されていくことになります。高校卒業後は地元を離れ、東京での新たな一歩を踏み出すことになりましたが、その原点には常に熊本での経験が息づいています。

【映画監督を志して…映画学校での運命の出会い】

内村さんは高校卒業後、日本映画学校(現・日本映画大学)に進学します。当初の夢は映画監督。自身で脚本を書き、映像を作りたいという強い意志を持っていました。この映画学校こそが、彼の人生を大きく変える出会いの場となります。そこで出会ったのが、後の相方・南原清隆さんでした。

二人は授業はもちろん、友人としてプライベートでの時間を過ごすことで意気投合。映画だけでなく“笑い”への興味やセンスでも共鳴し合います。当初は真面目に映画制作を学んでいたはずが、授業の一環としてお笑いネタを披露することになり、当初は別のクラスメイトとコンビを組んでいたそうですが、最終的には南原さんとコンビを組むことになったそうです。

その後、お笑いコンビ「ウッチャンナンチャン」として本格的に活動を開始。彼らの原点が映画学校だったことは、内村さんが現在に至るまで「映像」へのこだわりと「物語性」のある笑いを貫いている理由の一つとも言えるでしょう。

【想定外のお笑いデビュー】

本来は映画監督を目指していた内村さんですが、在学中に芸能プロダクションから声がかかり、1985年に「ウッチャンナンチャン」として芸人デビューを果たします。まさに“想定外”のキャリアチェンジでした。

当時のバラエティ番組『お笑いスター誕生!!』で注目され、斬新なコントやキャラクターで一躍ブレイク。1990年代には『夢で逢えたら』や『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』など、若者に絶大な人気を誇る番組を次々に生み出します。

南原さんとの相性の良さもあり、二人は「第三世代」と呼ばれるダウンタウン、とんねるずらと並び称される存在に。内村さんの特徴である“繊細でストーイー性のある笑い”は、当時のテレビバラエティにおいて新鮮な空気をもたらしました。

【お笑い第三世代、一時代を築くキーパーソンになった理由】

前述のとおり、1980年代後半から1990年代にかけて登場した「お笑い第三世代」は、従来の漫才やコントとは異なるスタイルを打ち出し、テレビを中心に新たな笑いの波を起こしました。中でも内村光良さんは、“破壊力”よりも“構成力”と“人間味”で魅せる芸人として独自のポジションを築きました。企画構成力やキャラの作り込みの精度は群を抜いており、内村さん自身が「演出」や「監督目線」でネタを練ることも多かったと言われています。

後年、内村さんの元でブレイクした若手芸人たちも、「ネタの構成が非常に論理的」「自分をおいしく見せるより、相手が光るような台本を作ってくれる」と語っており、そのスタイルは当時から一貫していたことがうかがえます。

地下鉄やガジェット製品、雑誌などのモノや情景を擬人化した「対決シリーズ」、日常を切り取りファミレスや喫茶店などを舞台にしたコント、映画作品などを元ネタにしたネタなど、それまでのコントにはない世界観を醸し出す作品を多く世に送り出しました。

【まやかしの”City(シティー)派”…?】

90年代の内村さんは、“シティ派芸人”とも評されました。その所以は、スタイリッシュな笑いからくるものですが、実際には内村さんも南原さんも地方出身者かつ、熊本と香川といういずれも西日本出身者。当の本人は、あくまで「真面目でちょっと不器用」な九州男児であり、「都会的に見られるのは照れくさい」「二人とも西の出身なのにね笑。」とたびたび語っています。

確かに“都会的”に見られるのは外見やキャラ設定の印象かもしれませんが、東京は「地方者の集まり」と揶揄されることも多々あるもの。内面にある地方出身者らしい素朴さや、根っからの努力家気質が上京した「地方者」からの支持を得て”City(シティー)派”として憧れの存在となったのではないでしょうか。

“まやかし”であろうと“天然”であろうと、内村さんの「柔らかく洗練された芸風」は結果として多くの視聴者に愛され続けてきたのです。

【数々の伝説的番組を生み出した平成時代】

平成時代を代表するバラエティ番組の多くに、内村光良さんの名前が関わっています。『笑う犬の生活』『内村プロデュース』『ウリナリ』『炎のチャレンジャー』『気分は上々』『世界の果てまでイッテQ!』など、企画性と独自の世界観を融合させた作品群は、いずれも高評価を得ました。

中でも『内村プロデュース』は、後にバカリズムやさまぁ〜ず、アンタッチャブルなど、現在も第一線で活躍する芸人たちの登竜門的存在となりました。視聴率以上に“出演者が成長できる場”として業界内外から評価されています。

『気分は上々』では、現・くりぃむしちゅーや現・さまぁ~ずが改名企画きっかけに大ブレイク。『ウンナンのホントコ』内の人気企画”未来日記”からは、サザンオールスターズの「TSUNAMI」や福山雅治の「桜坂」などのヒット曲も生まれました。

また、テレビ東京で放送された冠番組『内村さまぁ〜ず』は、ロングランヒットを記録し、幅広い世代に親しまれています。内村さんの“見守る力”“引き出す力”が、番組の継続的な魅力を支えています。

【音楽シーンも席巻、ミリオンヒットから紅白歌手へ】

内村光良さんは、コント内のキャラクターや企画ユニットとして音楽活動も精力的に行ってきました。特に『ポケビ(ポケットビスケッツ)』や『ブラビ(ブラックビスケッツ)』は、バラエティ番組『ウリナリ!!』から生まれたにも関わらず、実力派アーティスト顔負けの人気を博しました。

ポケビの「YELLOW YELLOW HAPPY」「Red Angel」「POWER」はミリオンセールスを記録し、紅白歌合戦にも出演。また内村さん自身も2005年に「NO PLAN」での活動をするなど、定期的に音楽ユニットとしての活動をしています。

その中で常に感じられるのは「届けたい」という真摯な気持ちと、ユーモアに裏打ちされた温かさです。芸人としてではなく、“一人の表現者”としての内村光良が音楽を通じて見せた一面は、多くのファンの心に残り続けています。

【念願の映画監督デビュー】

かねてから夢だった映画監督として、内村光良さんは2006年に『ピーナッツ』でデビューを果たします。脚本・監督・主演をすべて自身で手がけ、芸人仲間たちを巻き込んだ人情喜劇で、映画界にも独自の世界観を持ち込むことに成功しました。

その後も『ボクたちの交換日記』(2013年)、『金メダル男』(2016年)などを監督し、「笑い」と「感動」が共存する温かい世界観の映画を複数制作しています。また、地元・熊本の復興支援と被災の記録として制作された「夏空ダンス」では、高校生のひたむきな姿とともに、被災からの復興に向けて立ち上げる地元の強さと美しさを色濃く映像に映し出しています。

インタビューでは「映画学校に入った頃の夢をずっと持ち続けていた」と語っており、その言葉からも一貫した情熱と、内面に宿る表現者としての矜持が伝わってきます。

【若手芸人の登竜門的存在に】

内村さんは長年、若手芸人の才能を発掘し、舞台や番組で育てる役割も担ってきました。『内村プロデュース』や『LIFE!〜人生に捧げるコント〜』では、当時無名だった芸人や俳優に大きなチャンスを与えています。

彼の演出スタイルは、決して押しつけではなく「任せて見守る」こと。実力を引き出すことに長けており、共演者からは「自由にやらせてくれるから挑戦できた」との声も多く聞かれます。バナナマン、オードリー、東京03、シソンヌ、星野源といった多くの表現者が内村さんのもとから羽ばたいていきました。それが本人が意図しないものだとしても、その影響力は非常に大きなものがあります。

【抜群の安定感で紅白総合司会に抜擢】

2017年から4年連続で『NHK紅白歌合戦』の総合司会を務めた内村光良さん。これまで数々の生放送番組で鍛えられた瞬発力や進行力、共演者への気配りなどが高く評価され、起用に至ったと言われています。紅白では自身もコントや歌に参加しつつ、視聴者層を意識したナビゲーションに徹し、「安心して観ていられる司会者」として視聴者からも高評価を得ました。2018年に芸能界引退した安室奈美恵さんは「内村さんの声でとっても安心して涙が出ました。」と語っています。内村さん側も、「安室さんの紹介をするときには、緊張でマイクを握りしめる両手が震えていた。」と話していました。

特に話題となったのは欅坂46との共演シーンで、「不協和音」を全力のダンスを披露。真摯に取り組む姿がそれぞれのファンのみならず、各方面から称賛されるなど、“好感度の高い国民的司会者”としての地位を確固たるものにしました。

【還暦を迎えてなお現役を続ける理由】

2024年に還暦を迎えた内村光良さんですが、現在も『イッテQ!』『LIFE!』など、数多くの番組に出演し続けています。さらに、新たな映像作品の企画や監督業にも意欲的です。また、2017年から毎年開催しているお笑いライブ『内村文化祭』は、芝居・コント・歌唱・ダンス・トークなど自分のやりたいことをすべてやるという、まさしく”唯一無二の文化祭”として自身のライフワークになっています。

彼の原動力はどこにあるのか。本人は「まだやれていないことがある」「若い人たちと一緒にやるのが楽しい」と語っています。自分のペースで、しかし確実に笑いや表現を進化させる姿は、多くのクリエイターにとっても刺激となる存在です。

時代が変わっても、人を思いやるユーモアと、丁寧な表現を重ねてきた内村光良さん。その存在は、芸能界だけでなく、日本のエンターテインメント全体における財産と呼べるでしょう。

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